おいらがweb漫画に期待していたもの

ここのスペースに書くのも、久々になってしまったな。毎日パソコンは立ち上げているのに、そもそもネットじたいを見るのも、あんまり楽しくなくなってしまった。10年前であれば、徹夜で2ちゃんねるの板を見ていたとか、ざらに聞いたような気がする。ネットにうずまいていた熱量が全体的に下がった気がする。ネットは下降線を辿っているもしくは、限界が見えてしまったと思うのは、おいらだけだろうか。


ホームページ&掲示板 → ブログ → ソーシャルネットワークサービス。。。とネットが進化していくにつれて、何か期待とのズレが生まれてしまった。ネットという電車にのっていれば、どこか素敵な場所につれて行ってもらえるように妄想していたのが、目が覚めて現実に気がついたというか。ネットがだめになったのではなく、割り増しに見えていた魔法が解けてしまったというか。


おいらが抱いていた妄想というのは、例えるなら「のび太の机のひきだし」のようなものだった。ある日突然ドラえもんが飛び出してきて、そこにはまったくちがった世界が広がっている。というああいう体験がどこかにあるに違いないという期待だったように思う。


たぶんweb漫画に期待していたのも、そういう「のび太の机のひきだし」のようなものだったのだとおもっている。ネットに突然あらわれる落とし穴。そんなものがあると面白いと思うんだけど、なかなかそういう経験はできませんね。ネットに限らないことなんだろうけど、ネットというのはそういう経験をするのにピッタリしているとおもうのだ。ただ、カジュアルなコミュニケーションとは、なんか方向がはずれてしまったんだな。



一生にたったの一作品でいい、そういう「のび太の机のひきだし」のようなものが、どこかの誰かにあったならと思う。これまでも、これからも。

「あなうさピーターのはなし」


青空文庫でみつけました。ピーターラビットとして有名なうさぎの絵本です。ふんわりしたやさしいタッチの挿絵ですが、ちょい悪うさぎ危機一髪とでもいうような、なかなかの冒険アクションものだったりします。作者はちょっとハラハラさせてやろうという、いたずらっぽい性格だったのかもしれません。

WikiPediaによれば作者はビアトリクス・ポター(1866-1943)という女性で、ビクトリア朝時代のイギリスで資産家の家庭に生まれ育ちました。アメリカのウォール街で学生がデモをしている今日この頃としては、お金と時間をもてあました資産家コノヤロウ、と思わないでもないです。しかし、こういう作品は資産家の暇つぶしでないと、できない作品なんだろうな、とも思うのでした。もともとは出版するためにかかれたものでなく、ひとに宛てた絵手紙だったらしいです。


※オリジナルはこちら→
作家別作品リスト:ポター ビアトリクス


ピーターラビットその他の作品を追加しました。

原発は危険だったという恐怖はリアリズム

福島第1原発の1号機は、あの地震発生から4時間あとくらいには、原子炉の燃料棒が冷却水から露出して損傷がはじまっていたといまさらのニュース。地震電源喪失してから非常用復水器で冷却していたものの、30分後の津波によってポンプが故障して冷却機能が復旧不可能に。この後たった3時間半ぽっきりで放射能汚染へとつながる事態が始まってしまっていたのだ。


どのくらい早く「ベント」や「海水注入」をしたらよかったのかという議論があるけど、もちろん地震発生後4時間よりまえにやらなきゃならなかったはず。東電社長は国会での質疑で、「住民の避難を確認したりせねばならない」などいろいろ理由を、あげては「ベント」や「海水注入」の遅れはなかったと主張しては、支援金をひきだそうといる?けど、実際にベントや真水注入したのは翌日になってからです。遅すぎですよ! つまりたった3時間半ぽっきりの間に「ベント」しなきゃいけない事態におちいったら最後、そこでジ・エンドだったっていう認識でオーケーですか?


ポンプで水を循環できなくなると、温度があがって冷却水が水蒸気になる。原子炉や格納容器の圧力がとんでもなくあがって壊れてしまう。だから圧力を下げるために「ベント」をおこなうのだという。原子炉の冷却水がなくなり、空だきになれば燃料からは大量の放射能が気体となってもれだし、またその過程で水素も発生するのだとか。これが建屋とか格納容器で酸素と反応すると爆発して、放射能をばらまいてしまう。空だきのまま高温の燃料が落ちれば原子炉を溶かし、そのまま格納容器の水に落下して、水蒸気爆発することも。今回は水蒸気爆発はさけられたとはいえ、2号機で格納容器内で水素爆発がおこっていて、すでにチェルノブイリ原発事故の10分の1程度の放射能を大気中にばらまいているのだ。


たった3時間半ぽっきりの間に、水位をもどしてふたたびポンプで循環させないかぎり、この一連の流れはとめられないように思うんだけど。「ベント」「水の注水」以外で、対策ってなにかないんだろうか? 打つ手がないにもかかわらず、ずいぶん津波地震の想定をかるく見すぎていなかっただろうか。このままいつ爆発して放射能汚染するかもしれない爆弾を抱え込んだまま、おびえながら暮すしかないのだろうか? この国は放射能汚染から逃げるところがないくらい国土が狭いんだよ。


地震津波も日常茶飯事だといっていいこの日本で、地震で配管が壊れて冷却水が漏れたりと、なんらかの理由でたった3時間半ぽっきり冷却装置がとまるということは、ありえないことではないというか、ずいぶんありそうな気がするんだけど、政府がその辺を無視したまま「安全」というのは、まんまとまされた気分がします。プンプンッ! しかも事故がおこったときのツケは、税金や電気料金として国民がはらうことになるんだから、いったいダレのための原発なんだよ。トラブル隠しなんてせこいことやっていないで、しっかり安全対策のためにお金をつんでくださいよ! 電気料金は国際比較して高いっていうじゃないですか、どうなってんだこりゃ。
 

政府はこのことを知っていて「安全」といっていたのだろうか。じつはよく知らないまま「安全」と思い込んで、いつ爆発してもおかしくない原発を54基もせっせとつくってきたのだろうか。ホラーとしかいいようのない現実に、ボー然としてしまうですよ!  

原発は安全というファンタジーが崩れた日

ありゃー、大変なことになっちゃったな。震災の被害にあったみんなに一日も早く幸せな生活がかえってきますように。正直いってあれが自分の住んでいるところでなくてよかったなんて思っては、うしろめたくて居心地の悪いキモチ。しかし地震津波もすべて起こるべくしておこっているわけで、停電とか、放射能漏れとか、風評被害とか、買占めとか、自粛とか、起こってからはどうにもならんでしょう。


東電や政府にたいして批判のほこさきをむけるのをためらい勝ちな人がいる。チェルノブイリ原発事故みたいな危険があると知りながら原発を地方に建設させてきた、とか、原発でつくった電力をつかって豊かな生活をつづけてきた、といううしろめたさからなのか。それ、今回の事故の反応としておかしいでしょう。ちがうなーと思ってしまう。また「それでも原発は必要」とか言いだす人もいて、どういう神経の持ち主なのかと思ってしまう。それは「あの事故はやむえなかったんだ」だから「いまの原発は間違ってなかったんだ」みたいに読み取られてもしかたないでしょう。被害者の感情をさかなでまくりでしょう。そんなやつは被曝して死んでくれとか、とか思いますよ。


原発放射能もれは、津波で5メートル水没したために原子炉を冷やすポンプや計器などが、みな壊れてしまったことだそうです。今回の津波は想定外のレベルのもので、「ありえない事故」だったのだとか。ところが明治の三陸地震でも、今回とおなじ38メートルの位置まで津波がきていたところもあったそうで、津波が来たらどうなるか、電源が失われたらどうなるかと、警告していた人もいたらしい。ふたコトメには想定外想定外って逃げてるだけだろう。政府や東電のいう安全ってのは、危険に目をつぶることなんだ? しょっ引かれたIT社長みたいに「ソウテイナイ」連呼してくれよな。事故が起こることは「ソウテイナイデシタ」とか。


でないと、いまある「安全な原発」がちっとも「安全」でないことになる。東電は福島と新潟にあわせて17基もの原発をもっているが、中越地震とこんかいの地震とで4基しか稼動していない。原発は発電コストが安いということがウリだったらしいけど稼働率低すぎでしょう。使用済みの燃料の処理費用とか、織り込まれていないばかりか、地震発生後の安全確認とか、事故がおきたときの賠償とかもふくめると、そうとうなバクチなのでは。バクチのうえに成り立っている国家ってあぶなすぎでしょう。


いまのところ放出された放射能が少ないのが不幸中の幸い。放射能のこわいところは、ガンになる確率が高くなることだろうけど。基準値を上回ったようなホウレン草とか水をとるくらいなら、タバコの副流煙とかのほうがどんでもなく悪いそうだ。喫煙者はたばこをやめて、福島県産の農産物を食べたほうが、よっぽど健康にいいんではないかな。それと海外の人は、日本の製品っていうだけで放射能うたがうなんていう、風評やめてくれよな。とかいっても無駄なんだろう。事故はおこってからでは遅いってのは、こういうことなんだな

「鏡の国のアリス」


いわずとしれた児童文学アリスシリーズの電子ブック化第2弾です。古くてあたらしいアリスワールドにれっつごー。テキストはGPLということでありがたく使用させていただきコピペです。もとがGPLということで、電子ブックもGPLになるのかな? 古典くらい本を買って読みたいものですが、、数々の訳書をだされている山形氏の機知にとんだ名訳で、アリスワールドがたのしさエビゾウなのです。(訂正、倍増でした)※義務教育下のよい子は、エビゾウがなにか知らなくていいからね


オリジナルのリンクは下にあります。そしてレイアウトは、フリーソフトopenoffice writerを使用しました。フォントは埋め込み可能なフリーフォントTakao明朝を使用しました。個人的には、Visual Basicマクロを使用して、どれだけレイアウトを省力化できるかを試す研究材料でもありました(たとえばルビ振り、画像サイズ調整などなどなど)。これもプログラミング知識ゼロから、マクロを解説している有志のサイトを参考にしました。はてなブログもフリーのアカウントです。どこかで料金が発生していたら、わざわざ電子ブックしてアップなんて、しなかったと思います。数々のフリーの恩恵に感謝。ありがとうです、みんな。しかし、まだ読んでません、校正してませんのでミスがあるかも。なにかあったらコメント欄にて。

※オリジナルはこちら→
Through the Looking Glass: Japanese

リアリズムの遺伝子のゆくえ

ファンでもなかったものの、今敏の訃報にがっくりときた。東京ゴッドファーザーズ」をはじめて見たときは、正直言って「なんでこんなアニメをつくったんだろう。」とか「実写でやればよいのでは?」と思ったりもした。とはいうものの、ああいう作家がいて、作品をつくっていること自体がワクワクするものがあったな。アニメファンでないような一般の人がみたときに、押井守のアニメも、そういう「よくわからない」ところがある。表現しようとしているものが、すごく先端をいっている感じというのはわかるんだけど。。。そしてアニメファンにも、映画ファンにも人気がいまひとつで、知名度もやや低めという。


ボクチンがいっている90年代リアリズムの波があったという感じるのは(あるのかないのかわからないけど)、まちがいなくあの時代に今敏のようなアニメ監督がいたことにある。海外でもセンセーションをおこした大友克洋のSF巨編「AKIRA」が1988年に公開されて、当時ジャパニメーションといえばジブリよりも「AKIRA」だったはず。大友克洋のおかげでハードボイルドな作風で、背景の緻密な描き込みをするというスタイルを流行るようになっていった。ウィキペディアによれば、「大友以前、大友以後」という言い回しさえあるらしい。


かつて「AKIRA」ブームがあったとことを思えば、今敏の作風について、点と線とがつながっていくように、「ああー、なるほど」と思う人はいないだろうか? ハードボイルドな演出、背景において、ストーリーにおいての緻密な構成は、SFではないにしろ重なって見えてくる。90年代の大友克洋という表現はふさわしいかわからないけど、それぞれがバラバラにつくっていたわけではなく、そういう遺伝子を持った人たちのジャンルなのだ。という一般的な認識があれば、もっと人気があってもよいのではないかな。


日常を舞台にした作品が多かったものの、今敏監督はSF作品からうけた影響が大きかったらしく、メンタリティについていえば、ずっとSFだったとおもう。大友克洋や、押井守とは、アニメ製作でスタッフとしてかかわりがあったとか。ついこないだの作品は筒井康隆原作の「パプリカ」だった。


おもえば80年代には初期の「ルパン3世」とか、「スペースコブラ」とか、70年代のアメリカンニューシネマに影響があったのか、ややハードボイルドな作風のテレビアニメや少年漫画、ってけっこうあったんだよな。それが青年漫画誌とか、OVAとかの時代になっていって、一般に触れにくい、わかりにくいジャンルへと追いやられていくんだけど。


テレビドラマとか、映画とかについても、こういう作風なんだということについて、もう少しわかり説明されたら、もうちょっと楽しめてもよさそうな気がするのに、もっと評価されていてもよいだろうに、もったいないよな。ということがありそうだ。何を楽しんでいいかよくわからないから、とりあえずベストセラーを読んでおいて安心する。そして世の中つまらない作品ばっかだなと、思い込んでいる。そういう行き違いがありそう。


ボクチンごときが言ってもなんの説得力がないのだが、ジブリアニメほど人気はなかったにしても、今敏監督は本当はすごい巨匠だったんでは? すくなくとも知名度以上にはすごい人だったと言っていいと思う。そういわざる得ないことが、なんか残念だ。

アイドル冬の時代の意味するものは

NHK特集『音楽のチカラ』で作詞家・松本隆氏のいままでの仕事をたっぷり1時間振り返るような番組がやっていた。内容はかつてWikiPediaをじっくり読んでいたボクちんからすると、そのまんまじゃんというつくり。そんなに目新しいことはないのだけど、ユーミン松田聖子の作曲家として引っ張ってきたのは、じつは他でもない松本氏だったというんで、これはへぇー、と思うところがあったなぁ。いわゆるプロデューサーのようなこともやっていたのだという。


アイドル歌謡に対して松本氏がはたした功績とでもいうのか、存在感が予想以上に大きかったんだろうな、と思い直した。松本氏が作詞家として活躍した80年代にわかに盛り上がったアイドル歌手は、80年代後半には失速していった。松本氏も90年代に入ると作詞をしなくなり、ブランクの時期になる。


アイドルに限らず、○○冬の時代という言われ方をすることがある。次々に新しい才能が出てきて、作品が作られて、それに熱い視線をそそがれているという状態にない、つまりあんまり流行っていないことなんだけど、この言葉には「もっと流行っていてもよさそうなのに、おかしいなぁ」というニュアンスがあるように思う。90年代がそうだったわけ。


だから90年代はアイドル冬の時代だったみたいにいわれると、なにか腑におちるというか、納得して判った気になってしまう。その理由についてボクちんは以前にこう考えた。90年代はリアリズムの波があって、バンドブームがあり自作自演のシンガーソングライティング時代、自己表現の時代になっていった。だからアイドルといったファンタジーな存在は廃れていったみたいに。


松本氏のアイドル歌謡の詞は、「男が描いた少女漫画のヒロイン」というのがボクちんの印象。80年代後半からアイドルも自己表現へと向かい、90年代にはパンチラコスプレ自作自演シンガーソングライターの森高千里がいた。アイドルもここまでリアルな存在でないとダメな時代。と同時に、アイドル冬の時代でもあったわけで、なんだかアイドル文化も終焉をむかえつつあるみたいな雰囲気だったよ。


ここで、ふと思うのは、作詞家・松本氏の活躍とまんまかぶっているアイドルの流行の時期だ。アイドルとは何か、今アイドルとはこういうものだ、というものの原型を作ったのは松本氏だったんではないかという考えがおさえられなくなってくる。「本来は、アイドルなんて一括りにできるものはないんですよ、あったのは松本氏のイリュージョンとその二番煎じだけなんです。」と。


時代なんていうのは、そんな大勢がつくるもんでもなく、飛び抜けた才能のある人が一人いるかいないかで、大きく変わるものなのかもしれないな。そう考えると○○冬の時代なんていう表現は、なんかおかしい気がしてしまう。その言葉に、冬の時代だから流行らなくなった、才能がでてこなくなった、みたいな意味が含まれているとすれば、原因と結果が逆だなーと思ってしまう。


もともと冬なのが当たり前なんだよ。春になるのは、才能のある人があらわれる一瞬だけで、その後もずーっと冬で2度と春なんて訪れない。というのが、正しいのかもしれないな。もちろん今でもアイドルという存在はあり、新しい才能がつぎつぎと現れているんだろうけど、かつてのアイドルとはまったく別のジャンルになっていく。言葉の意味するイメージはあまりにも変わりすぎるのに、冬の時代なんて一括りにしようとすること自体がむずかしい問題だよなぁ。


もちろん90年代はリアリズムという言い回しは、それに似た難しさはあるんだけど、ボクちんのいっているファンタジーとか、リアリズムはアイドルとは違ってジャンルではないのだ。表現の手法のことなのだ。しかし、いまひとつ具体例が示しきれていないので、中途半端でよくわからない論になっているなぁ。ファンタジー・リアリズムはわかりやすくて実用的かとは思うだけど、力不足なり。