セカイ系。「何かすげえことおこらないかな」

前回「キミとボク、そしてセカイ」という構図で成り立っているといわれるセカイ系を取り上げた。どうしてこういった作品が生まれたのか? について自分なりに推理もしてみた。90年代リアリズムで、キャラの内面を描きたがる風潮があって、主人公の内面だけで自己完結してしまう。だから周辺にある“社会”が抜け落ちてしまうのだ。ということを書いた。まだ何か足りない感じがある。当時の社会に蔓延している空気がどんなだったのか思い起こしてみよう。


当時は平成不況の真っ只中、失われた10年とかいわれて停滞していたわけで、しかもハルマゲドンの世紀末ときている。退屈でつまらない日常をだらだらと過ごす人々の中には、終末を待望するような気分になったものもいたはずだ。「世の中ひっくり返るような、なにかスゲエことおこらないかな」という気分があったようだ。それはカルト宗教で言えば、あのオウムが「終末」を現実のものとすべく、テロ事件を引き起こしてしまうだが、「何かすごいこと」、「終末」が訪れること望んでいたのは、オウムに限らなかったのではないか。


セカイ系は、どこにでもいるような平凡な主人公の日常生活と、ありえない終末的な戦争状態とがセットになっている作品という特徴もあるような気がする。エヴァに乗ることでしか承認されない平凡な少年シンジと、なぜかわからないけど使徒との戦争状態、人類補完という終末の組み合わせがまさにそうで、セカイ系とは、「何でもいいから、何かすごいことおこらないかな」という当時の時代の空気から生まれるべくして生まれたという気がする。


ネットのオタクたちのアニメリテラシーはすごく、『涼宮ハルヒの憂鬱』はセカイ系のパロディだと、見抜いている。そういう内容のブログ記事がけっこうあった。主人公ハルヒは、未来人や宇宙人にしか興味がなく、SOS団というクラブ活動までつくって周囲を巻き込んでいく、いわゆる不思議ちゃんだ。この主人公の姿勢こそ、まさに「なにかすごいこと起こらないかな」であり、セカイ系だというのだ。そんなハルヒではがあるが、学園祭でライブをやることになり、「現実って面白いかも」と感じるようになる。これは、セカイ系にとどめを刺した、ことになるらしい。


90年代に、セカイ系を支持していた読者のそういう姿勢を批判して、今は決断主義の時代「自分で行動せよ」といったのが「ゼロ年代」の宇野氏だ。この辺の読みはするどい。*1(もはやセカイ系の時代ではないというわけだが、かつてこういう批判がなかったわけでもない。エヴァ庵野監督も「現実にかえれ」と、同じようなことを言っていたり、押井監督も「うる星やつら2」でいつまでも終わらない文化祭前夜を繰り返す主人公たちを描くことで、成長なきファンタジー世界を批判したりした。こういったリアリズム志向の監督がアニメをつくって批判的なメッセージを投げかけたりというのが、いかにも90年代ならではだ。こういうところが90年代をリアリズムの時代だったと感じさせる。)


「何かすごいこと」で待ち望まれるものとは、現実にはありえないこと、つまりファンタジーなのだけど、キャラの内面描写とかいったリアリズムと、いびつな形でのセットにならざる得なかったのがセカイ系の作品なのだ。いかにも90年代リアリズムの時代に、ありそうなファンタジー作品だ。その後のゼロ年代はといえば、90年代のセカイ系的なファンタジーとは決別したように見えるけど、それは宇野氏のいう「決断主義」というよりも、また違うファンタジーの時代になったんではないか? いつか考えたい。(ちなみに、クドカンとか、バトロワデスノート、ってのは90年代的な作品でじゃないかと感じるんだけど? どうなんだろう)

*1:追記