ファンタジーの作法。「ヒーロー」は完全さをもたらす装置

「80年代ファンタジーや、90年代リアリズムはあったのか?」ということについて考えるには、まずはファンタジーやリアリズムという言葉の意味から考えなくてはいけないので「ファンタジーとは何? リアリズムとは何?」に対する答えを出そうという実験のつづき。


前回に、登場人物の内面をたんたんと描くのは、リアリズムだよなー、と書いている。そこで「カミ」の物語がファンタジー。「ヒト」の物語はリアリズム、と書いた。これは、もっと言ってしまえば、完全な存在としての「カミ」、そして不完全な存在としての「ヒト」を描くということである。「カミ」は完全だからこそ、不完全な「ヒト」を支配し、世の中に安定と平和をもたらす。「ヒト」は不完全だからこそ、過ちを犯して、「カミ」の裁きや許しをもとめるのだ。すごく抽象的になってしまったが、「ファンタジー」「リアリズム」の原型をたどると、こういうところではないかな。


ここで、「ファンタジー」としてのヒーローちょっと考えてみる。「ヒーロー」は「カミ」と同等の性格をもつ、完全なキャラクターとして描かれる。が、一方で「ヒーローはなぜ悪人を殺していいのか」ということが、まじめに議論されたり、ファンタジー作品のテーマになったりすることがある。悪人を取り締まる警察や、悪人を裁く裁判所があるのに、いったい何の権利があってヒーローは、そんなことをするのか? 悪人だからといって、殺してもよいものなのか? 頼みもしないのに、人間の肩代わりをしてくれたりするのか。そもそも誰かにとっての悪は、誰かにとっての善であって、絶対的な悪などあるのか? 本当に悪人なのか? 


ヒーローからすればまったく恐ろしい事態だ。存在意義について問われるとは。ヒーローの存在そのものに疑問をもつということが、そもそも「リアリズム」側からの「ファンタジー」に対する挑発であり、パロディでもあるのだ。子供のころにあこがれたヒーローであっても、大人になるにしたがって「アハハ、あれは実際あり得ないよね」ということになる。「ファンタジー」側にとってはかなり分の悪い状態に置かれてしまう。かつて、「カミ」の仕業とされてきた天災や自然現象が、自然科学によって説明されるようになった。「カミ」ってのは今ほど情報がない時代の産物だよね。と言われるにいたった歴史と似ている。では、もう「カミ」は必要ない存在なのか。


ヒーローも60年代、70年代、80年代、90年代・・・と、描かれ方についても違うんだろうが、今それをさらっている余裕がないので、またあとで調べて見るかもしれないけど、オイラの勝手な想像では、70年代とか90年代とか、リアリズムが支配していた時代にあっては、やはりヒーローものはあまりウケなかった、シラケた空気がまんえんしていたんではないかな。以前のエントリ「誰がキャラクターを殺したか」でもそれと似たようなことを書いたつもり。まだ、想像の域をでないものだけど。


ここで終わってしまうと、ヒーローはあり得ないよな。という身もふたもない話になってしまう。ここからが肝心だ。そもそもあり得る「ヒト」の物語を描くことが正しいのか? 「リアリズム」の方が正しいのか? という疑問を「ファンタジー」の側からあげておきたい。


「リアリズム」の作法として、不完全な「ヒト」を描くことは、「こういうことって、あるよね、ありがちだよね」っていう、共感を得られるかもしれないし、視聴者・読者も物語を理解しやすいかもしれない。が、そもそも作品の「バランス」としてどうなのかを問いたい。「ヒト」は不完全だから、苦しんで努力したからといって、あとで成功して幸せになるとは限らない。どこかで失敗するし、どこかで不幸が待っている。それに怯えている。一方、「カミ」は完全なので、苦しんで努力したら、あとで成功して幸せになるのである。どちらが「バランス」がよいでしょうか? ということである。


絵空事であっても、不完全な状態ではじまったら、かならず完全にな状態になって終わってほしい。問題が発生したら、解決してほしい。というのが読者・視聴者の心理だろうし、健康な心の持ち主ならば、マイナスの感情が回復されることを求めるものだ。いってしまえば、完全無欠のヒーローはそのための装置にすぎないのかもしれない。しかし、「ファンタジー」の中では装置としてあり得るし、作品の「バランス」を考えてもやはりハッピーエンドをもたらすヒーローの完全さは、よいのではないかな。と、あり得ないヒーローものを擁護しておきたい。


「ファンタジー」の作法、それは「カミ」のごとき完全さ、絵空事を楽しむこと、楽しませることだ。