「まんが・アニメ的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」ってなーに?

リアリズムつながりで気になった言葉がある。90年代に大塚英志が「まんが・アニメ的リアリズム」を提唱して、それを受けて東浩紀が「ゲーム的リアリズム」を言い出しているみたいな話があるらしい。リアリズムという言葉がからんでくるので、ちょっと聞き捨てならない。実際に本を読んでみたわけではないけど、検索にかけると、なんとなくどの本にどんなことが書かれているか、がわかる。

彼らがいっているリアリズムは、まず文学における自然主義的なリアリズムが前提にある。文学のリアリズムでは人間を描くことがテーマとされて、主人公が人間だったけど、ライトノベルという新しいジャンルではそれがキャラクターになっていますよ、新しいリアリズムが誕生していますよ。ということらしい。時代的には、おいらが言っているところではゼロ年代ファンタジーの時代と重なっているので、彼らのいっているリアリズムは、ひょっとすると一般的には、また本来はファンタジーと呼ぶべきものではないか? という気もしてくる。あえてリアリズムという言葉をつかっているところに、新しさがあるんだろうけど、それをなんでリアリズムと呼ぶのかな。


社会の情報化がドンドンすすんで、リアルとバーチャルの境目がなんたらかんたら、という話をよく聞いたりする。情報といってもテレビや新聞だけにかぎらない。買い物するにしたって、電話・メールでのコミュニケーションにしたって、何をするにも情報を次々に吸収していかないことには生活ができないという、情報にどっぷりひたっている現実がある。さらに、まんがアニメやテレビドラマ、映画をみる機会もかつてより格段に増えただろうし、ワレワレはみんな自分を取り巻く現実以外にも、いくつもの物語があることを知っている。ここでの人間といっても、自然主義的なリアリズムが描いていた人間とはちがっていて、いってしまえばキャラクターで置き換えてしまえるようなものだ。現代はそこまでリアルとバーチャルは皮一枚になっているんだぞといいたい、ニュアンスが感じ取れる。「まんが・アニメ的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」は、いってしまえば「ファンタジーに生きている現代人」というのと、同じような響きがする。


あるいは、リアリズムの文学に、ライトノベルというジャンルを無理やり位置づけるためにつくられた言葉が「まんが・アニメ的リアリズム」で、それ以上の意味はないのかもしれない。おいらからすると、言葉では「リアリズム」とはいっていても、それってゼロ年代ファンタジーなんではないの? と思ってしまう。


ついでにいっておくと、リアリティがあるという言葉と、リアリズムの関係について。たまにリアリティについて書かれた文章がチラホラ目につく。

リアリティを「精緻さがある」「真に迫っている」「現実味がある」などなど文脈によっていろんな意味があるけど、おいらが言うところの「ヒト」の物語としてのリアリズムとどういう関係があるのだろう。現実味をおびさせようとすると、どうしても読み手であるワレワレの視点に近いものになってしまう。神々とかいっても仏像などを見てもわかるとおり、ファンタジー世界の超人を具体的なものにしようとすると、人間に近い形をしていたりする。ファンタジーをテーマにした作品でも、リアリティを追求すると「ヒト」に近づいてしまうことがありがち。リアリズムとは「ヒトの感覚に近い」物語といってしまってもいいかもしれない。「リアル」「リアリティ」と「ヒト」とは切り離せないものだ。リアルといってもワレワレにとってのリアルなのである。


ひきつづきリアリズムとは「ヒト」の物語、ファンタジーとは「カミ」の物語ということで、話をすすめていこう。