「バーチャル」の誕生。「リアリズム」と「ファンタジー」の間に。

ファンタジーを「カミ」の物語、リアリズムを「ヒト」の物語と定義してみた。リアリティを「ヒト」と切っても切り離せないとした。ワレワレは経験からして見たり触ったりしたことのないものに対しては、リアリティは感じにくいからだ。たとえば、アイスクリームを食べたことのない人に、アイスクリームがどんなものかを説明したとしても、彼にとってのアイスクリームは、ファンタジーな存在だろう。そして漫画やアニメのシーンで、アイスクリームを食べるキャラクターを見たとしても、そこにあまりリアリティは感じないはずなのだ。


だからリアリティを追求しようとすると、どうしてもワレワレ自身の体験とか、周辺にあるもの、あるいはそれに似たようなものを、描かかなければならなくなるのである。リアルとはワレワレにとってのリアルだからだ。リアリズムが「ヒト」の物語というのも必然的にそうなるのだ。


では、「ファンタジー」をテーマにした作品で、ワレワレの経験からはまったく想像できないような世界で、「ヒト」とは関係ない物語では、リアリティを出すことはできないのか? という疑問がおこってくる。宇宙での生活を描いたとして、それをリアルに感じることはできないのか? 初代ガンダムをリアリズムとして説明されたりするけど、宇宙を舞台にしたSF・ファンタジーであることと矛盾してないだろうか。



結論を言ってしまえば、ワレワレとは遠い世界の物語であってもリアリティはだせるのだ。作品の中で、納得できるような説明がなされればいい。魔法を使える主人公がいたとして、魔法というものがどんなものかを、十分な説明がなされれば、ワレワレはリアリティを感じることができるだろう。あれ? それでは「ヒト」と関係ないところでも、リアリティを感じることができることになってしまう。説明が十分ならば、食べたことのないアイスクリームにリアリティは感じることはできてしまうし、「リアリズム」が「ヒト」の物語とでなくてもいいのではないだろうか。


こう考えるべきだ。じつは、十分に説明がなされることによって、魔法がどんなものかを、ワレワレは疑似体験してしまっているのだ。実際に経験していなくても、疑似体験によってワレワレはリアルなものとして受け取ることができる。それくらいの想像力をもっている。だから、リアリティを感じることができるのだ。十分な説明、ここに「バーチャル」が誕生するのである。ちょっと前にリアルなゲーム上の世界のことを、「バーチャルリアリティ」と呼んだりするのが流行った。ゲームに限らず十分な説明がなされれば、「ファンタジー」であっても、リアルなものとして感じることができるのである。それは経験からくるリアリズムではなく、疑似体験としてのリアリズムだ。


交響詩篇エウレカセブン』の設定で、トラパーという粒子があった。リフボードをうまく乗りこなせば、その粒子の波をサーフィンのように乗ることができるのだ。これは作品の中だけでしか成立しないことではあるが、トラパーについての繰り返し説明がなされ、設定を無理なく受け入れられるようになっていたかと思う。ファンタジーではあっても、「バーチャル」の疑似体験によってリアリティを感じさせることはできるのだ。


ファンタジー世界の「カミ」もおなじように、十分な説明がなされれば、バーチャルな存在としてはリアルなものとなりうる。しかし「カミ」の物語にリアリズムを持ち込んだとしても、ワレワレが人間である以上は、疑似体験としてのリアリズムにしかならないのだ。「バーチャル」は、「ヒト」の物語を拡張することができると同時に、「カミ」の物語をリアル化することができる世界だ。「リアリズム」と「ファンタジー」の中間にある領域なのだ。