ヒロイズムとテロリズムのねじれ。リアリズムの果てに。


オウムの地下鉄サリン事件とか、911の飛行機ジャックによる自爆テロが起こって以来、テロリストを扱ったドラマや漫画が目につくようになったような気がする。たとえば「ブラッディ・マンディ」、これも漫画原作のテレビドラマだが、ハッカーの青年が公安とともにテロリストと戦うというストーリーだ。漫画原作のドラマといえば、シリアスなストーリーになのに、ムリな展開があったりしてアレ? と思うこともしばしばだが、それはまたご愛嬌。


テロリストものの作品が目立つのは、90年代に、ワイドショーの特番によって犯人像をプロファイリングしたり、ニュース速報によってリアルタイムに、観戦したりするようになったり、いわゆる犯罪の劇場化とでもいうようなことが、90年代以降に多くなった。このことはリアルな犯人像を描かれるようになったことと、関係があるんではないかと想像する。


アニメや漫画の悪モノといえば、突然に東京を襲撃する怪獣と同じで、よく分からないが迷惑な存在で、やっつけなくてはならない敵なのだった。おそらく第二次大戦の空襲で爆撃をしたりするアメリカ軍というのも、当時の日本人の目にはそういう存在に映っていたのだ。戦争が終わったのちにも少年向けに作られた、特撮ヒーローものとか、漫画とかに描かれる、とにかくやっつけなくてはならない敵という勧善懲悪もののストーリーも、経験としてありえた物語だった。ともかく悪モノとは、よくわからない敵だった。


しかし、高度経済成長、オイルショックの低成長時代を経るにつれ、戦争の傷跡もすっかり消えてしまい、80年代にはよくわからない敵を倒すということもファンタジーとしても、リアリティがうすくなってしまい、ヒーローの存在意義が危うくなっていくのだった。日本は先進国の仲間入りをして海外格差も縮まり、消費文化やアイドル歌謡が花咲いて、日常がファンタジーへと変貌をとげるようになる。グローバル化を進めるレーガン政権の下、洋画や洋楽がなだれこみ、「昨日の敵は今日の友」という訳で、戦う理由がなくなってしまう。


やがて時代は、ありえない物語より、ありえる物語。を目指すようになる、90年代リアリズムだ。よくわからない敵。子供向け作品ならまだしも、とはいえ団塊ジュニア世代もいつまでも子供ではない。「人間の敵とは、結局は人間」として描かれるようになる。前回のバトロワのテーマは、まさにそれで、90年代リアリズムからうまれるべくして生まれたシンボリックな作品だとおもう。


バブル崩壊の後、残ったのは不良債権の山で、失われた10年といわれる停滞した時代へと突入する。戦うべき相手のいない退屈な日常、不満はつのるばかりだ。エヴァのようなセカイ系といわれる作品が、その90年代後半に生まれる。どこにでもいるような平凡な少年と、世界の終末戦争というような組み合わせで、「なんでもいいからスゲエことおこらないかな」という、当時の青少年の心理状態を投影していたと考える。エヴァでは、主人公シンジ君の自意識の問題から、「こんな世界なくなっちゃえ」と思ってしまい、そのことで世界はLCLの海となり滅亡する。


そういう時代とシンクロして終末を現実のものとすべく、サリン事件をおこしてしまったカルト教団オウムは、突然日常にあらわれた本当のテロリストにだった。当然他の事件と同様にして、新鮮なニュースのネタとして俎上に上げられ、劇場の開幕はじまりはじまり。テレビの前にいる世界中の好奇の目にさらされる。オウムやセカイ系が待ち望んでいた終末戦争とは、敵としては不完全であいまい、破綻していた。という意味では、過渡期だったのかもしれない。


やがて、人間の敵は人間。テロリスト。という明確な敵を発見するようになる。テロというと無差別に殺人をするというのが正しそうだけど、ここでは日常に脅威をもたらす人物とでもいえばいいか。人間が敵ということでいえば、サスペンスというスタイルがまさにそうだ。「monster」「21世紀少年」の浦沢直樹はサスペンスという手法を漫画にもたらした一人で、90年代リアリズムと時代的にかぶっている。「デスノート」の主人公・夜神月は、偶然手に入れた死神の手帳でつぎつぎに悪人を消していき、とんだ勘違いした正義テロリストとして描かれていた。「コードギアス」のルルーシュは、クーデターを企てるテロリストだった。


悪といえば、かつてはよくわからない存在で、とにかくやっつけなくてはならないものだった。90年代リアリズムによって悪とは、人間でテロリストとして描かれるようになっていき、ときには主人公としての人格が与えられる。いってしまえば、ヒロイズムとテロリズムは、位置関係が逆転しうるほどに詳細に描き出され、接近するようになった、ともいえるのかもしれない。